京都家庭裁判所 昭和34年(家)2365号 審判 1960年5月07日
申立人 千良治(仮名) 外一名
主文
申立人両名がその氏「千」を「納屋」に変更することを許可する。
理由
申立人両名は主文同旨の審判を求める旨申立てた。
そこで、本件記録添付の千良治の戸籍謄本、申立人千良治提出の上申書及び各「証明書」と題する三通の書面、三浦周行監修の堺史第七巻別編(一一九頁)の各記載並びに鑑定人林屋辰三郎の鑑定の結果に、申立人両名に対する各本人尋問の結果を綜合して考察すると、次のような事実を認めることができる。すなわち、
申立人千良治はわが国の茶道を大成した千利休の後裔にして裏千家十四代の宗匠である千宗室の二男であつて、現に茶道、美術及び観光等の書籍の出版、販売を業とする株式会社淡交新社の代表取締役(社長)であり、申立人千喜美子は申立人千良治の妻なのであるが、申立人千良治が前記のように茶道の宗匠の家に育ちながら、書籍の出版販売を目的とする会社の社長となり、実業界において活躍するようになつたのは、利休の曽孫の代以来、表、裏及び武者小路の三千家に分れた茶道の各家元において、茶道の宗匠の地位を承継する者をそれぞれ長子である嗣子一名だけに限り、それによつて茶道の家元を三千家以上に増加分裂さすことを極力回避しているため、自ら茶道の師範となり得ないことによるのである。のみならず、千家においては、千の氏を称することも宗匠の外はその承継者である長子だけに限られるという慣例が確立しており、そのため前記茶道の伝承者以外の兄弟姉妹は、婚姻、養子縁組又は廃絶家再興等の方法により千氏を返上して利休ないしは千家にゆかりのある他の氏、例えば、松平、角倉または菊地等の氏に変更している。ところで現在の裏千家においては、宗匠千宗室の後継者(いわゆる若宗匠)は長男千宗興に確定し、かつ千宗興にはすでに相続人となる直系卑属も存在しているため、前記宗匠の二男である申立人千良治は、
(一) あまんじて前記のような千氏返上の慣例に従おうとする意思を表明しており、
(二) すでに茶道の師範となる意思がなくて、前記のような実業にたずさわる場合にも、千の氏が茶道の家元として由緒があり、かつ著名であるだけに、申立人自身の独立的人格が無視せられることが多く、さらに又しばしば同申立人の職業とは異る茶道の宗匠または若宗匠と誤認せられ、そのため出版契約、資材の仕入、手形割引その他よ取引関係において過大な評価もしくは不当な要求を受ける場合がおこる結果、今後千の氏を継続呼称すれば、この氏を変更する場合よりも、いつそう多くの不利益や損害をこうむることが明らかである。このような事情により、申立人等は進んで千の氏を変更して、他の姓を名乗ることを切に希望するに至り、その変更宛先の氏として、利休が千の氏を称した以前の姓である「納屋」という氏を望んでいるのである。
以上認定のような事実関係において、氏変更につき、戸籍法第一〇七条にいわゆるやむことを得ない事由があるかどうかを判断するに、先ず前記(一)の慣例に従うことは、鑑定人林屋辰三郎の鑑定の結果により明らかなように、これによつて千家を茶道の家として特定ずけることに役立ち、その権威を高める結果になり、従つて、それが家元制の茶道の隆盛に寄与していることは間違いのないところであるが、茶道が本来生活文化として担つてきたところの意義、すなわち一般大衆のあいだにおいて人間相互の結合関係を深め、相互間の智慧と感覚を磨き、歴史及び伝承への理解を高め、かつ衣食住の生活に合理的精神を植え付けるという効果を推進強化する上においては、むろん応分の貢献を認めないわけにはいかないけれども、そのために最も緊要ないし不可欠の要件であるということはできないものと解せられるので、上記慣例に従う意思の存在だけでは、まだ氏変更許可の理由とはなし難いものである。
次に前掲(二)の事情について考察するに、このような事情の存在する場合には、同申立人において千以外の氏を称する方が便利であり、幸福であるとして氏の変更を希望するだけの社会的な必要が生じているものということができる。いうまでもなく、現行法の氏は、法的秩序の基礎単位である人の同一性を表象する記号としての機能を営むものであるから、その呼称が変更することなく一貫性を保つことは法の要請するところであり、また氏はこれを軽々しく変更しない方がその当事者自身にとつても利益であるのが通例であるけれども、他面さきに指摘したような社会的必要に答え、また有利且つ便宣な氏に変更を希望しようとする強い意図を重んじることは、個人の自由と幸福追求を基本的に承認しなければならぬ近代法の精神からいつて無視することのできない原則である。それ故に、申立人等が、氏変更につき上記のような社会的必要性を感じかつその変更を切実に希望するものである以上、申立人等の職業に関係のない茶道家元としての千の呼称を強要することは、かえつて社会秩序維持の上からも思わしくない結果を生ずるおそれがあるので、このような場合には千の氏の変更を承認する方がむしろ社会的便宣にも一致するものということができ、従つて申立人等の氏の変更についてはやむことを得ぬ事由があるものといわねばならない。
なお、変更後に称することを欲している氏の「納屋」が、申立人等の氏として適切であるかどうかを考慮するに、利休が千氏を名乗る以前に納屋と称していたことはさきに認定した通りであるが、もしそれだけの理由で氏の変更を求めるものであるとすれば、それは封建制の家名意識を温存しようとするものであつて到底許可することはできないのであるが、申立人等の氏変更については、すでに前段判定のようにやむことを得ない事由があるのであるから、たまたま変更を希望する姓が祖先の氏であつたとしても、それが珍奇、難読でもなく、かつ当用漢字に該当する以上、この氏の使用が申立人等の呼称としての便宣性に消長を来すものということはできない。それ故戸籍筆頭者である申立人千良治とその配偶者である申立人千喜美子が、その氏「千」を「納屋」に変更することはやむことを得ない事由があるものとして認容するのが相当である。
よつて、戸籍法第一〇七条により、本件申立を理由あるものとして、主文のとおり審判する。
(家事審判官 高橋実)